昭和43年07月25日 朝の御理解
御理解 第38節
「垢離をとると云ふが身體の垢離をとるより、心のこりをとって信心せよ。」
心の垢離を取って信心せよ、心に垢離があって信心したんではいけないなぁとゆう事を感じますね、この御理解から。垢離がある、垢離があって信心したんじゃだめだとゆうことを感じます。垢離をとるというが身體の垢離をとると云うよりは、心の垢離を取って信心せよ、信心するからには、まず心の垢離を取らなければいけない。だからこれは心配する心で信心せよとこうおっしゃいます。
心配の心で神様に信心したら、そこには心配が薄らぐ、又はなくなってゆく。そこに、おかげの道がはっきりしてくるように垢離を積んだり積ませたりとゆうような事ではいけないから。そこは、こりを《とって信心してはいけないとは書いてはない<ですけどね。けれど、こりを取って信心せよとおっしゃるからには、こりを取って信心しなければおかげは受けられないとゆうものを感じるでしょう。だからここんところを本気でひとつ、こりを積んでおるような事はないかとゆう事をまず考えなきゃいけません。
%V%U御理解四十節のところに「重い物を負うているか、かついで居れば苦しいが、そうでないから信心は楽じゃ。家業を勧め勧めするがよい。」重い物をかついでおればね、やはり肩もころうとゆうものじゃ。ところがお互いがその、重い物をかついでおる、重い物をかついでおるから肩がこるように心がこるのだ。ここにはね例えば責任が重いと云ったような事を申しますよね。一家の主人としては生活の事については、一家の主人が中心であり、やはり責任をかんじますよね。
それが、大きな世帯であればある程やはり責任が重いですから。子供をもっておりゃあ、やっぱり親の責任として子供が一人一人それぞれの道にありつく迄、又は結婚する迄、これは親の責任として、やっぱそれを感じます。だから、それがいつも肩のこりにかかっておる、それがいつも重荷になっておる。昨日福岡の文男先生が導いてきた方なんですが、他の宗派の信仰をなさっておられる。けども何か、特別な事やらお願い事やらの時には、ここにみえるのです。
昨日親子三人でみえました。息子さんが久留米のある大学に来年は入りたいとゆう訳で、親子三人でお願いに来ました。(笑)私はそれをお取次させて頂きながら思いましたねぇ。「みんなが、さぁ受験とゆう時期になってから、さぁどうぞおかげ頂きますようにと、まるっきりその、泥棒捕まえて縄なうようなお願いに来るけれども、あなたのように前々からこうやってお願いなさるならこれはもう必ずおかげ頂きます」と私は申しました。まぁだ来春でしょう受験は。
それを前の年の夏からお願いにみえて、だからお願いしっぱなしではいけませんよ、とその代わりに。もう半年も前にお願いしとるけんでと、ゆうだけではいけませんよ。だから、僕も、いわゆる本人も来ていましたから、これからは暇をみては出ておいで、お父さんもお母さんも、ひとつ繁々とお参りするとゆう事は出来ませんから、せめて月に一回位は、お参りして来なければいけません。
そうしてこ一年もあるとゆうのに一年も前からその事がお願いがしてあると言う事になりゃぁ、それは神様でもいやっちゃ云いなさらんだろう。(笑)もう本当に出来たごと思うてから、まぁだ喜ぶには早すぎる。そりゃぁもう出来るじゃろうと云うたもんですから、そりゃぁもう嬉しかごたる風ですもんね親子三人ながら。例えば今からその事に向かって信心すれば大丈夫とゆうのであって、只もう半年も一年も前にお願いしとるけん、もうよかとゆうのじゃぁない。
たいがいのものは、さぁもう来月になって、いよいよ受験が何日、もう目の前にせまってお願いにくるという人達が多いのに、あなた方親子三人でしかも、一年も前にお願いにみえるから、それはおかげ頂くよと。とゆうてその、願いっぱなしではいけないお参りしておるうちに私はそこんところをわかってもらいたかった。来年は息子が大学受験じゃがと親の肩にいつもかっておる。ところが信心させて頂いてお願いさせて頂きよると、その重荷がだんだん軽うなってくる。
神様にお願いしておるから、先生がああ云うて下さったから。私は特に子供の結婚なんかの時には、どうしても親の責任をいわば感じ過ぎるのはよいけれども、感じ過ぎるならすぎる程に、それだけ神様にもっていかにゃいかんです。自分があんまり感じ過ぎるもんですから、目の前が真っ暗になってしもうてから。本当の事はいっちょん分かっとらん。もう只、子供の本当の幸せの事ばっかりしか思わん。
誰でも子供の幸せを願わない親はないけれども、どうゆうおかげがそこに転がりこんできても、それをおかげと見きらん。それぞれがやはり責任を感じなければいけないけれども、それぞれの御用分担のうえに於てもです、教会なら教会のお互いの御用に於てもです、やはり、責任をもってしなければ事は成就しませんけれども、その責任を感じるなら感じる程、お取次を頂いてこのような責任の重い御用させて頂きますから、神様どうぞよろしくお願い致しますとゆう事になってくる時にです。
それは段々軽いものになっていき、本当はその責任は、ゆうなら神様へ転化されるようなおかげを頂かにゃいかんです。只神様にお願いしておるからというて安易をむさぼるとゆうのじゃぁない、神様にお取次ぎして頂いて信心が深く出来ていきゃぁです、神様がよっしゃ引き受けたとゆうて下さるような気がするんです。一心に打向かうていきゃぁ、そこに生まれてくるのが安心なのです。それがこりを積まんですむ。
これはだから分からん、例えば昨日私が不安な人をお取次さしてもろうた様にです、これはもうあなた達は、大丈夫ばい今からお願いしていきゃあ。それでほっとする様な顔をしますみんな。親子三人ながら。けれどもねお願いしっぱなしではいけないよ、さぁこれからは本人も出ておいで両親も出ておいで、繁々とはいかんけれどもせめて月に一辺位は、出ておいで。勉強にかかる時には必ず金光様唱えて勉強にかかるのぞと。
そこでこれははっきり出来るとゆう訳ではなかばいのと言う事が分かった。やっぱりおすがりせにゃあ、おすがりしていきよるうちにです、これはおかげ頂くぞと、本人が本当に強くなってくるだろうと。親の責任とゆうものが、重ければ重い程、神様へおもいおもいの信心をさせてもらわにゃならん。そこに、身が楽になる、肩に垢りを積まんで済む、心のこりを取って信心せよとはそう言う事。
心配する心で信心せよ、もう心配で心配でたまらん、夜も眠られん程心配、さあそこでそれをお願いした、赤裸裸にお願取次頂いた。神様がよっしゃと引き受けて下さるようにお取次ぎ下さった。ところが帰り際にはまたどっこいしょと云うて持って帰るような事をする、ずらっとここに並べるだけ。大変な重荷を、ここに並べただけじゃないですか、又心配を持って帰るなら。もう心配はここに置いて行きなさい。さあところが心配を置いてゆきなさいというても置いてゆけんのが情なんだ実をいうたら。
そこでですその心配が薄らいでゆく位の信心をさしてもらえ、そこのところは私は言葉で言い表しきらんですけれども、それだけでの信心が出来ていきよると、精進させて頂きよるとです、なる程自分の心の中からその思い、心配が薄らいでゆくのは、事実なのです。そこに力をおいて心配は親先生にお願いした、そこに大船にも乗ったようなとゆうような事にもなってくる訳なのです。
私はそう思うのです。垢離を取って信心せよと仰るここのところはそれこそ大して重きを置いて感じなかったんですけれども、これは、垢離を取って信心しなければおかげにならんぞとゆうのがその先に聞こえてくるような気がする。こりがあるまま信心したっちゃ駄目ぞと云うておられるような気がする。昨日も熊本のある教会の先生が参って、先生方の会合に出たんですねぇ、何十名の先生方が集まって。お話を頂いとりますとですねぇ、これが金光様の先生じゃろうかと、自分も含めてですねぇ。
これが現在の金光教の先生かと思うたら、もう何か肌にぞっとするものを感じた。御酒飲みながら、御ち走頂きながらです。まぁううだごっつばっかり云いよるとゆう訳なんです、それはどんなううだこつでもいいですよ。けれども、それが神様の喜んで頂くようなううだごつならよいけれどもです、話はどうゆう事かというとですねえ、どうゆうやうな行き方になれば、教会が立ち行くかとゆう話である。ここへ参りました途端にですねえ、三々五々丁度昼の御祈念を頂いて帰りました。
お参りをしてみえられる、御祈念が始まる、先生の御理解を頂く、そのムードの中にですね、ここではどうすれば教会が立ち行くかではなくて、先生のその信心がですねえ、どうすりゃあ信者が助かるかというムードでいっぱい、そんなものを感じてですねえ、金光教はまだ死んじゃあいないとゆう感じがしたとゆう意味の事を云われるのです。まだこうゆう教会があった。十人おるなら十人の先生方が、どうすれば教会が立ちゆくか、教会の御用に本当にお役に立つやうな総代を育てるには。
どう言う様な教導をしたらいいか、総代だけを集めて、特別な教導をして総代とゆうのはこげんなからなならんのぞ、幹部とゆうのはこげんなからにゃあいかんのぞと、教会の事をこげん思わにゃあいけんのぞと言う様にです。そうゆう事を一生懸命研究している話を聞きながらその先生が感じた。それこそぞっとするやうなもを感じたと。これが金光教の現在の姿であるかと。自分も朱に染まれば赤くなるで自分もあの中に段々変わっていきよるのじゃなかろうかと思うたと。
だからその先生は、教会がたっていく、繁昌していくと言う事を責任を感じてござる訳なんです。だからそれが自分の重荷がきつうしてたまらんのです。だからそれを総代にも分担させよう信者にも分担させようとゆういわば話なのだ。なる程そうゆう先生が取次いだっちゃあ助かるまいと私は思うた。ここに、これだけたくさんの信者がおりますから、私もやはり責任を感じます。だから感じれば感じる程、お広前のほうにはもってこん、御神前の方へもってゆく。
そして神様が、よっしゃと言うて下さる声を聞かなければこっちは頑張る、それまで。だからどうゆう責任を私が感じてもです。重荷をかんじても引き受けて下さるのは神様が持っておって下さるから、こちらは楽なのだ。時々思う事があるです、本当にこれ以上の難儀があるだろうかとゆう事がずーっと続く事があるですよ。本当にここでもらい泣きするごたる事があるです。やはり人間心使いますから、ぐったりなります。やはりもうその責任の重さにへとへとになります。
けれど次の瞬間には、それが神様に向けられておる。次にはそれが私の修行に表れてくる、それで次には心配しなさんなとゆう事になってくる。これはね教会だけの事じゃないですよ。商売させて頂いたら商売、商売だけの事でもない。どうすりゃあ店が繁昌するじゃろうか、どうゆう経営の方針を取ったら店が立ち直るじゃろうか、そげなこつどん考えとったっちゃあほんなおかげにならんです。どうすればお得意さんが助かって下さるか、お得意さんが喜んで下さるかと言う事だけを考えときゃぁいいです。
同じ事ですどうゆうサービスしたならば、いわばお客の獲得が出来るか、どげんしたらならば、自分ば信用させる事が出来るかと言う様な事どん考えとったっちゃあ、駄目です。これはもう本当にそうですよ。例えば高橋さんがおられるが、三福寿司がどんな信心すりゃあ繁昌するじゃろうかとゆうやうな信心では駄目です。どういう信心させて頂いたら、お客さんが芯から喜んで下さるじゃろうかと言う事だけを考えたらいいです。そこはもう紙一重でしょうが。
思いがどう言う様な商売をさして頂いたらお客さんが喜んで下さるかとゆう事になりゃあです自ずとそこには、真心のこもったサービスも出来ます。自ずと誠意誠実とゆうものが出てまいります。信用してくれと言わんでも、信用は集まってまいります。自分で店を建て直そうかと自分で繁昌の元を作ろうなんて言う様な考え方が一番つまらんです。それは丁度、どうすりゃあ教会が繁昌するじゃろうか、発展するじゃろうかと云うてそこに血道をあげておる先生方と同じ事です。
それよりかどうすれば信者が助かるじゃろうか、どうゆう自分が修行さして頂いたら、ありかたになったら神様が喜んで頂けるじゃろうか、難儀な氏子が助かっていくじゃろうかと、明けても暮れてもそれを思うとったらいいです。お広前を立派にしたり、御神殿を作ったり、もうそげなこつどん考えよって、よかお広前が出来るはずがなか。ここにこうやって、立派なお広前が建立されたけれども、私共はこげなもん建てようなんて、いっちょん思うとらんじゃった。又建ててくれともいわんじゃった。
さぁ総代さんどうしますかと云うてその問題を持っていった事もなかった。それでもやはりこのようにおかげを頂いておるようにです、どうでんこうでん私が一生一代のうちに檜の香りのぷんぷんするような御神殿を作りたい。その為には自分は、どげな修行しようと信者もこうあってくれ、さあどげな修行したっちゃ、そげな修行ではよかお広前が出来るはずがなか。建てる為に修行しよるとじゃから、信者が苦しむばっかり。そげな所でよし建立されても、信者は必ず倒れる。
どうゆうような信心さして頂いたら、信者が助かるじゃろうかと。これはどう言う様な商売、どう言う様な信心さして頂いたら、お客さんに喜んで頂けるような経営が出来るじゃろうかとゆうその事を思い続け考え続けたら、もう絶対繁昌です。これは。だからそう思うただけではいかん。やはりどうしたなら、お客さんが喜んで頂けるであろうかと思うたらやはり、他所よりも良い品物を安く売るとか、同時に真心をこめると、これは自ずと教えられんでん分かってくるところなんです。
そう言う様なところに、私はこりを積む、積まないがあるように思います。自分でひっからって。心配はあります、難儀は有りますけれども、その難儀の内容がです、よく検討すると同時に、その難儀はどこからおこってきたかと。実意、平身低頭詫びるより他にはない。謙虚な心で、神様に詫びると同時に、そしてその心配を全部神様に引き受けて頂く位な気持が自分の心に開けてくる。
自分のこりの内容、心にこりを積むとゆうことの内容は、どうゆう事かと云うと、まず疑い、迷い、憎しみ、そうゆうようなものが心のこりになっております。ばってん疑がわにゃおられん、ああゆうやり方だから憎まにゃおられん、矢張り迷わにゃおられないそこに私は、本当の信心があると。迷いとか疑いとか憎しみとかが心のこりになっておる。そこを迷わずそこを疑わず憎まずやっていける、もう心は何というか実にさっぱりしたもの。ばってん疑わにゃあおられんというのでしょう。
そこで相手を変えるとゆう訳にはいかんから、こちら自身が疑われない私に一生懸命精進する以外にない。自分自身が迷わんで済むだけの信心になる以外にない。もう家の息子だけは信じたい、うちの嫁ごだけは信じたい、けれどもあの様子みとったら、どうも疑わしい、信じられないもうそれが心配でたまらん。こりになるそうゆう時には、自分自身が神様から御覧になって、信じられる私になる事に精進したらそこには不思議と疑いやら、苦しみやら迷いやらは消えてゆきます。
心のこりを取ってと。神様のお嫌いになる迷いとか憎しみとか疑いと言う様な心を持ったままいくら縋ったっちゃ駄目だと言う事。そこでそういうものを払わして頂く修行それには、自分自身がまず、神様から信じられる私になる事。自分自身が神様から信じられる修行せずしては、いつ迄たっても疑わにゃならん、信じられなくなってくる。もう世の中が信じられなくなりました。私はこれから誰を信じていったらよいでしょうかなんて悲しい事をいう人が有りますよ。
信じておったあの人に裏切られ、もうこの人ばっかりと思うて信じて子供にすがり、頼っておったけれども子供から肩すかしをくらったようなもの。この人はと思うておった人から裏切られた、私はこれから先誰を頼っていったら、縋って行ったら誰を信じて行ったらいいでしょうか。あなた自身が神様から信じられる、あなたになっていくことですよというほかにないです。あなた自身が神様に信じられるあなた、そこにはあなたの周囲の誰彼が信じられるようになります。
そこに私は心にこりを積まんで済むおかげが頂かれるとおもうのです。心のこりを取って信心せよ、ここのところは、私は特に今日は感じますですねぇ。四十節の重いものをかついでおれば苦しいがというが、お互いが実際は、重いものを背負っておるのだ。家の中心として店の中心として、又は世帯の中心としてそれぞれの責任を感じておる。やっぱり重荷を感じておる、やっぱり重荷を感じておるのだ。でもそれを自分でかついでおったんではこりになるのだ。
そこでそこんところをお取次を頂いてです、どういう例えば大変な重いものであってもです。それが軽うなってくる、いや自分で担いでおるか担いでいないか分らない、神様に全部それを持って頂いておると思えれる、位な修行をさせてもらえとこういうのである。同時に心の垢離の中には、迷いとか憎しみと言った様なものが心の垢離に成っておる。だからそういう心では垢離を取って信心せよと言う事は、もう先ず疑いとか迷いやらを取って信心せよと言う事は。
もう先ず疑いとか迷いやらをとって信心せよと言う事になるのだ。いうならそれを信じたい信じたいと思うても、信じられないから自分自身が信じられる、私に成る事に精進することだと言う事。そこには一切がおかげ、一切がおかげと例えば疑わしかったそのことの中にでも、それもおかげであったと気付かしてもらうことになるのです。ですからそういう心の垢離を、私は又一般で言うですね、責任が重いというその責任をです、神様に転嫁する、責任転嫁と言う事は良い事じゃないけれどもね。
もう責任転嫁が出来る位に神様が「よっしゃ引き受けた」と言うて下さるような、感じのするところまで修行さしてもらったらいい。それにはです今私が言うその責任を、昨日の福岡の方にお取次ぎさして頂いたようにです、もう一年先にあるところの子供の大学受験をです、今からお願いして「はぁ大丈夫ばい、たいがいの者はもう泥棒つかまえて縄なうようなこつだけれども、もうこげん早うからあんたどんが、お願いしょるならもう大丈夫」ほっとする訳です。
はあ先生があげん言われるたが出来るじゃろかとこう思う。だからと言って願いっぱなしじゃいかんよ、としげしげという訳にはいかんから、月にいっぺんづつなっとんお参りしてお願いさせて頂きよるとおかげが頂けれる。おかげが頂けれるという気持ちが強うなってくるば、強うなってくる程親の責任というものが段々軽うなってくる。神様がその責任を負うて下さるようなおかげが頂けれるのだ。こりゃ皆さんほんとにですね、おかげ頂かにゃいけませんです。
ここの総代さんでですね、娘さん達がおります何人も、もう高校卒業致しますと、もう必ずお母さんがお願いする、これからまた職につかなきゃなりません。するとどこでまぁ言わば異性関係との交際があるやら分らん、どこで誰が好きになるやら分らん、どうぞそのへんのところの、万事お繰り合わせ頂きまして、いわば深入りして付き合うと言う様になりましても、どうぞ結婚の対象になるような人との、おかげを頂きます様にとのお願いがしてあるのです。
だから子供もちゃんと、お願いしてあるよと言うてあるから、子供達もこういうボーイフレンドが出来た、こういう人があるからと言うて、親にその事を話す、親がなおその事をお取次ぎ頂く、だからもう親がいっちょん心配せんで済む。そうでしょうが、もう高校卒業したらすぐそのお願いがしてある、それから5年たちおかげ頂いてから、二人の娘さん達が結婚しました、もうほんとにそれこそ、もうこの人あつらえた様な、おかげを頂いております。
両方とも職場で知り合うた人です。もうほんとにもうこげな素晴らしい人を神様からちゃんと選りすぐって合せて頂いておると言う事が感じられます。そこでどう言う事かというと、親の責任というものがもう高校卒業する時から既に無い訳です。無責任という意味じゃないですよ。それが願続けてある訳です。それこそ蕾の時から願い続けてある訳です。だからこういう人とお付き合いしとるいうても心配がないです。
私は信心さして頂く者のこの辺のところががですね、いわゆる心に重荷を感じないで済む訳なんです。お願いしてあるという、そりゃ自分がついて回ろうごとある、どげなこつしょるじゃろか、帰りが遅いともう心配になる。そう言う様な事ではね、いつまでたっても私はいわゆる垢離を取って信心せよと言う事になっていない。どうぞ一つ垢離を取って信心せよと仰るのですからその垢離の内容を今日は申しましたでえすね。
どうぞ。